昨今では叱るよりも褒める教育の方がいいと言う人が増えてきました。
私が叱る教育に対して感じた実体験と、考え方について書いて行きたいと思います。
※この記事では叱ると怒るは相手の行動を恐怖でコントロールする意図があるとして、同じものとしています。
怒りを行使されても反省できない
私が小学生の頃、宿題をしてこなかった学生を先生が黒板の前に整列させてけたたましく怒りました(女性の先生です) それはもう、男子でもびびっちゃうくらい怖い先生なのですが、その先生は学生に向かってこのばかたれが!という風に言ってペンでペチペチ頭を叩きました。
私も立たされていたうちの一人なのですが、プライドが高かった私はそれだけで泣きそうになり、強いては先生のことが最後まで好きになれませんでした。同様に女性でそう言ったタイプの方は人生の内に6人くらい現れて、今でも苦手だったりします苦笑
宿題をしてこなかった学生を叱り、怒りでコントロールしようとしても、学生の考え方は「先生に怒られないように宿題をしよう」であって、自分の人生のために宿題をしようと言う考え方にはなりません。子供の時にこのような考え方が形成されると、彼らが社会人になっても続いてしまう恐れがあります。
宿題をしなかったことにより先の人生で苦労するのは誰なのか、と言うことを考えると、学生を叱ってしまう気持ちもわかりますが、しかし学生も一人の人間として生きているので、彼らにも人生を選択する自由と権利はあるはずです。自分の人生の責任は自分で取ると言うことも、彼らにとっては学びです。
怒りの感情は母親からの影響が多い
私は幼い頃から我が強く、更に母親の言うことがあまり上手く理解できない子供でした。
私の兄二人は物分かりがよく、私と違って母親の言うことをなんでも聞いていたので、母は余計に苛立ったんでしょうね。自分のネガティブさもあり怒られた記憶と反発した記憶が今でも強く残っています。
後々私は母親に対して強く嫌悪感を抱くようになり、何を言われても喚き散らして怒るようになりました。怒りに対抗するには、怒りしかない。人間的に未熟な私にはその方法しかわからなかったのですね(中高生の時です)
3人の子供を育てると言うことがどれほど精神的に辛いことか、今の私ならわかりますが、社会のことも世の中のことも全く理解していなかった私には彼女を思いやってあげることができませんでした。
怒りは相手を従わせる手段
人が誰かを怒ったり叱ったりする時、それは怒りと言う銃で相手を脅迫し、自分の言いなりにさせようと言う無意識の思惑があります。
現に私は母親と似たような怒れる女性を前にすると怖くてなにも考えられなくなります。なにをしても怒られそうで、自分から何も考えられなくなってしまうのです。
もちろん過去に起こったことは、今どうするか、には関係がありません。原因論を語っても仕方がありません。
しかし怒りと言う感情から生まれるものは、支配するものとされるものでしかなく、後に子供達は、自分の身の回りの人間関係を縦でしか見れなくなり、この人は自分より下か、上かと言う他人と見比べる人生を歩みます。他人の不幸を笑い、他人の幸福を妬み、その先の人生をとても苦しむことになります。
褒める行為も誰かの行動をコントロールしたいがため
それでは褒めることはいいんじゃないのか?実はこれもアドラーは否定しています。
褒めると言う行為は、そこに上下関係があるから成立します。よくやったね、と親が子供に言い、子供をもっと自分の意のままに操るために使う手段です。
人間は、親に褒めて貰えなくても、前に進んで行かなければいけません。
誰に言われなくても、誰に見られていなくても、自分が正しいと思ったことをしなければなりません。誰も見ていないところでは悪いことをする。誰かが見ているところだけ良い行いをしても意味がないのです。
褒めてもらうことは誰だって気持ちが良いものですが、褒めてもらうことが出来なくなった子供はある種の飢餓状態に陥り、世間から注目を集める為に手段を選ばなくなります。
もし子供が何か良いことをした時は、「ありがとう」や「よかったね」など、自分の素直な気持ちを伝える方がよいでしょう。あくまでも対等な関係であると言うことを彼らに伝えます。
相手の関心ごとに関心を抱くこと
よく親子で漫画やアニメを見ると言った話しを聞くたびに、なんて微笑ましいんだろう、と思います。もしかしたら親御さんが漫画好きで子供も好きになったパターンもあるかもしれませんが、基本的に子供は、親が自分の好きなものに関心を抱いてくれると自分が認められたように感じることができ、それにより親の話しに聞く耳を傾けるようになります。
もし親が子供のことに関心も持たず、彼らが独善的に良いと思った「あれ」や「これ」を突きつけることは、上下関係を作ることに他なりません。よい学校に行け、一流企業で働け、などがそれに当たります。
いくら彼らの将来のことを思っていても、それは両親にとって良いことであって、彼らの意見は度外視してしまっています。それでは彼らと信頼関係を結ぶことはできません。
今まで親や子供の関係について書きましたが、これは友達でも、教師と生徒でも、会社の上司と部下でも、恋人同士でも一緒です。基本的に人間関係は信頼関係をベースにしています。
対策はあるのか?
怒りによってコントロールされてしまった人たちは、考える力を失います。誰かの期待通りに動かなければ怒られてしまうと言う恐怖が、自分で考える力を衰えさせます。これは親にとっても社会にとってもあまりいいことではありません。
では怒ってしまう人、また怒りにより勇気をくじかれた人はどうすればいいのか?
自分と他人の課題を分離する
例えば同じように仕事で失敗したとしても、怒る人と怒らない人がいます。
つまり、怒る理由と言うのはただのこじつけであるだけで、怒るか怒らないかの選択はその人次第。その人の問題であると言うこと。
怒られる側はそれを気にすることはないし、絶対にその怒りを買わないこと。その人が怒っていることはあなたの課題ではないので、これから同じ失敗をしないことに務めること。
怒る側は、じゃあこの先どうしたらいいかな、と同じ立場になって考えてあげること。
これはなかなか現実的にできることではないのはわかっています。片方が変わろうとしても、片方の理解が得られなければ逆戻りします。しかし、自分から変わって行かないことにはなにも変わらないのです。
自己中心的にならない
自己中心的と言うのは、つまり、自分を中心に世界が回っている。もっと言うと、自分が中心で、周りの人がそれに合わせて動いてくれると思っていることです。だから自分の思い通りに動かない部下に怒るし、理不尽に怒る上司に不満を持ちます。
他人が自分の思い通りに動かないことは当たり前です。彼らにはその権利があるからです。その権利を奪って何もかも思い通りに動かそうとすると人間関係に歪みができてしまいます。
他者を信頼すること
怒ると言う気持ちの裏側には、他者を疑ったり、相手を敵だと思っている気持ちが潜んでいます。他者を無条件で信頼すると言うことは難しいことに思いますが、信頼していない相手にただ怒るだけでは自分の気持ちをわかってもらい、信頼関係を築くことはできません。
自分が人と良好な関係を築きたいと思った時は、まず自分から相手を信頼すること。たとえその誰かが間違ったことをしても、そこには何か理由があるはずだと相手の善を信頼してあげること。
怒られる側の人も同じです。相手に悪意があると思うと傷ついてしまいます。相手を信頼し、相手は自分のことを思ってくれていると相手の善を信じてあげると、不思議と傷つくことはありません。
自己受容は他者信頼に繋がる
他者を信頼することと同じように、自分も信じることが必要です。
例えば、テストで60点しか取れなかった人がいたとして、「たまたま運が悪かったんだいつもの自分なら100点取れる」など、60点しか取れなかった自分のことを認めず、本当は自分が100点の人間なのだと思うのは自己肯定と言い、そこから彼らは成長する機会を失います。
一方で「60点しか取れなかったけど、次はどうやって100点に近づこうか?」と60点の自分を受け止め、もっと前に進もうとすることを自己受容と言います。
自己受容ができている人は、誰かを過大評価も過小評価をすることもなく、誰かがミスをしたとしてもそれを認めてあげることができるし、この人は成長することができると、他者を信じてあげることもできます。
実施するのは困難です、しかし何もしなければ変わらない
お気付きの人もいるかと思いますが、私がこの記事を書いたのはアドラーの教えを説いた本、「幸せになる勇気」からまとめさせて頂いたものです。実際のこの本の内容はもっと奥深く、普通の人では到底理解できないことから「ただの精神論だ」と言う人も多いです。
もちろん人間が変わる為には、多大なる努力と労力が必要です。自分だけ変わったって意味がないんだと諦めてしまう人も多いかもしれません。しかしアドラーは言います「あなたが始めるべきだ」と。
怒りと言うのは負の連鎖を持っていて、実はとても厄介です。母親や祖母から代々受け継がれてしまうくらいに、怒りの連鎖と言うのは根深いのです。また社会人になったら上司から負の連鎖を受け取ることで、その会社や部署自体が負の連鎖を次の世代に引き継ぎ、抜け出せなくなっていたりします。
だからあなたはきっと思うはずです。自分一人変わったくらいで何も変わらない、と。確かにこの世の中には劇的にあなたを、あなたの周りの人間関係を変える魔法はありません。世の中が変わらないのは彼らに変わらないと言う意思があるからです。あなたが変わりたくないと決心するのと同じように彼らにはその権利があります。
でもあなた自身は変わることができます。自分で幸せになるために変わることはできます。それは周りがどうとか、世間がどうとかは関係ありません。自分がこれからどうやって生きていきたいのか。その選択と考え方を、少しずつ変えて行くことが大事だと思います。
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